「悪い、依藤。遅くなった」
と慌てて教室の戸を開ければ、依藤は静かな寝息をたてていた。
窓に背を預けこちら側を向いて寝ているということは、
俺がいつ来てもいいようにドアの方を向いて作業をしていたからなのだろうか。
「(なんつー可愛いことを……)」
漏れそうな声と締まりの悪い口元は手で隠し、思わずそんなことを思ってしまった。
誰もいない教室で良かったと安堵しながら、俺は彼女のそばへとそっと近づく。
Θ 白雪姫の罠 Θ
机の上には頼んでいた仕事がきちんと片づいていて、
長いこと待たせてしまったことに胸が痛んだ。
「いっつも頼りにして悪いな」
そう謝罪の言葉を口にしながら、ポンポンと彼女の頭を撫でる。
素直に他人に甘えることができない彼女が気になったのは、いつの頃からだろう。
笑っているその顔が、周りに気を使わせないためのものだと気づいてから彼女の笑顔が見たくなった。
「……ほんとに、なんで同じ学年じゃなかったんだろーな」
クラスメイトだったら恋をしていたと、冗談めかして何度か告げた。
依藤が彼女だったら、と言ったこともある。
教師が教え子に恋心を抱くなどあり得ない話だと思っていた。
けれど、彼女に出会い、彼女を知り、俺の中で何かが変わってしまったのだ。
「ほんとに本気なんだけどな」
彼女は俺の言葉が本心からだと知らないから、
俺が冗談めかして想いを告げるたび、「いいですよ」なんて笑って答える。
「……人の気も知らないで……」
そんな彼女の答えを思い出したら、俺の気持ちに気づくことなく眠り続ける彼女に少しだけ腹が立った。
だから、
「そんな無防備に寝てると襲っちゃうぞ」
そんな言葉を口にして、彼女におおいかぶさるように身を寄せた。
「……キスで目を覚ますのはシンデレラだったかな」
彼女はどんな反応をするだろう。
真っ赤な顔で怒るだろうか。それとも泣くだろうか。
いっそ嫌われてしまえば諦めもつくような気がして、ゆっくりと顔を近づける。
彼女の目がパチリと開いたら自分はどうするのだろう。
そんなことを考えていた俺を止めたのは、彼女でも第三者でもなく、
ポキッという例の音だった。
ピタリと身体を止めた体制のまま背中をさすりながら小さく呟く。
「痛た…。何やってんだ、俺」
彼女が起きる前にそっと身体を離そうと、そう思っていたのに、
「まったくですよ」
そんな声が聞こえたかと思うと、下からネクタイを引っ張られてしまった。
「おわっ!」
身を引こうとしていた俺は予想外の方向へ引き寄せられ、いとも簡単に依藤の上へと倒れこむ。
大慌てで身を起こした俺に、
「白雪姫ですよ」
と彼女は平然と告げた。
「…………は?」
意味が分からず思わず口にすると、
「だから、キスで目を覚ますのは白雪姫です」
と彼女は答えた。
つまりそれは、俺が彼女にキスをしようとしていた段階から彼女は起きていたということだ。
「なっ…、い、依藤……っ!」
「どうかしました? 真っ赤ですけど」
きょとんとした顔で彼女は笑う。
「お、大人をからかうんじゃありません」
「からかってないって言ったら、どうしますか?」
ふふっと笑う依藤に、顔が真っ赤になる。
恋は惚れた方が負けだというけれど、まさにそうだ。
彼女の一挙一動すべてにドキドキする。
「その顔がからかってるって言うんだ」
ぎゅっと鼻先を指でつねると、彼女また笑った。
「じゃ、頼まれてた分終わったんで、帰りますね」
パタパタと彼女は教室を出て行った。
彼女の姿が完全に見えなくなった俺は、その場に頭を抱えてしゃがみこんだ。
「〜〜〜ッ!」
触れたのだ。確かにあの一瞬、慌てて身を起こしたけれど彼女の唇に確かに触れてしまったのだ。
なのに彼女はまったく気にする素振りがなくて、俺は一人でへこんだ。
「はぁー。……俺も帰ろう」
頼んだプリントを片手で持ち上げ、ふと気づく。
仕事に慣れている彼女であれば、この程度の量はあっという間に終わったはずだ。
わざわざ俺を待たずとも、メモ一枚残して帰ってしまえばよかったのだ。
「す、少しは期待しても…いい……のかな」
思わずにやけそうになった顔をブンブンと振って「いかん、いかん」と呟く。
期待して浮かれて、どん底に突き落とされるのはいつものことなのだから。
それでも、完全に否定することなど出来なくて、彼女に振り回される毎日すら楽しいと感じてしまう俺は重症だ。
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