Θ 小さな秘密 Θ
「つ、……翼君?」
恐る恐る声をかけるとカクンと彼の頭が下がる。
ビックリして顔を覗き込むと、ルビーのように綺麗な瞳は閉じられていて、スヤスヤと規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「なんだ。寝ちゃったんだ……」
そう言えば最近、授業も真面目に受けるようになったと先生方から声をかけられた。
宿題もきちんと提出して、春とは比べ物にならないぐらい真面目になったようだ。
「頑張ってるもんね。翼君……」
そっと彼の隣に腰掛けると、その頭を撫でる。
「最近翼君は本当に勉強頑張ってるけど、……卒業しちゃうのは寂しいわ」
これは私の秘密だ
三年生の担任を任されるた時は、なにが何でも卒業させると決意した。
B6の彼らや翼君たちと関わっていくうちに、卒業させたいという気持ちになった。
けれど、卒業が近づくと、その思いはまた変わってしまった。
「みんな……というより、翼君と別れたくないのかもしれないわ」
いい意味でも悪い意味でも、彼を超える生徒に会うことはないだろう。
「……近づきすぎちゃったな」
そう呟いてもう一度頭を撫でて立ち上がると、「んん…」という声が漏れた。
「おはよう、翼君。勉強頑張ってるみたいだけどこんなところで寝ちゃ駄目よ?」
「……ん、……先生、か」
まだぼんやりとして現状が飲み込めていないようだ。
「ほら。ここも戸締りしちゃうから、早く帰りなさい」
教師の顔でそう告げると、
「今日はバイクだから送ってやる」
と翼君は答えた。
「……でも」
たった今、翼君に近づきすぎたと気付いた私は、返事に戸惑ってしまう。
けれど彼は、にやりと笑って言葉を続ける。
「この俺と別れたくないのだろう? 卒業までの時間をやると言ってるんだ」
一瞬、何のことか分からなかった。
けれどすぐに、翼君が寝ている間のひとりごとを示していると気付いて顔が赤くなる。
「お、おお、起きてたの?!」
「ふん。あんな大きな声で喋られたら嫌でも目が裂ける」
「裂けちゃだめよ。お願いだから覚めて。寝ぼけないで」
「ん? 俺は今、何か間違えたのか?」
きょとんとしながらも翼君は更に口を開いた。
「とにかくだ。この俺はさっさと卒業したいが、先生が泣くからな。もう少しだけ生徒でいてやる」
そう偉そうに告げた翼君は、出会ったころの自信たっぷりの顔で告げた。
私の気持ちを、彼は担任としての言葉と受け取ったのだろう。それならそれで、いいと思った。
一緒に過ごす数日を思い出に、私の翼君への思いは秘密にすることにしよう。
「もう。わかったけどあの趣味の悪いヘルメットは嫌よ?」
「なんだと? この俺様のセンスを疑うのか?」
「疑うわよ。悟郎君だって青ざめてたじゃない」
「あれは歓喜の色だ!」
こんなくだらない会話も、あと何回続くのだろう。楽しくて、でも少し寂しくて、
けれど私は先生だから、辛くても笑顔で送り出そうと力強く微笑むのだった。
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